阪神甲子園球場は8月1日、開場から100年を迎えた。中等学校野球(現在の高校野球)の舞台として生まれ、やがてプロが力と技を競う場にもなった。阪神の往年のスター選手、通算320勝の小山正明さん(90)と通算474本塁打の田淵幸一さん(77)に甲子園球場や、甲子園での巨人戦の思い出を聞いた。
- 甲子園球場100年 建設当時の姿が3DCGでよみがえる
小山正明さん、初のナイター試合で登板
僕がいた兵庫・高砂高は弱小校だったので、地元なのに甲子園球場ははるかかなたの存在でした。それが、テスト生として入団した阪神の選手として、あのマウンドに立てたわけだから。感動を極めましたね。
当時は内野席を覆う鉄傘の上にファウルボールが当たると、「ゴーン」と大きな音がするんです。しばらく響いてね、今でも思い出しますよ。
甲子園球場はナイター照明が設備されたのが遅かった。1956年5月12日でした。初めてのナイターでの試合で、相手は巨人。僕はその試合で七回から3イニングを投げて、僕が決勝打を打って勝ったんです。昼の試合と雰囲気が違ってね。プロ21年で計320勝したけれど、一番印象に残っている試合ですね。
当時は投手力の阪神、打力の巨人でした。今もあんまり変わらないかもですな。川上(哲治)さんが4番で、与那嶺(要)さん、南村(侑広)さんらがいてね。その数年後に長嶋(茂雄)、王(貞治)が入団してくるんです。
阪神は打てないから、巨人戦は負担がかかりました。でも、当時は巨人戦だけ観客が満員になる。よし、やってやるぞ、と気合が入ったもんですよ。今と違って大半は男性客で、女性はほとんどいませんでしたけどね。
長嶋は、とにかく厄介な打者でした。得点圏に走者がいれば軽打で単打を狙って、走者がいないときは思いっきりスイングして本塁打を狙う。状況に応じて振り分けていました。
僕は直球に自信を持っていて、若い頃は三振のほとんどは直球で奪っていました。しかし、年齢を重ねて球威が衰えていくと、ワンちゃん(王)によく本塁打を打たれた。そこで、パームボールを編み出したんです。これが成功して、ワンちゃんをけっこう抑えられた。よし、いけるぞ、と。でも、(1963年に)山内(一弘)さんとのトレードで毎日(毎日大映オリオンズ、64年から東京オリオンズ)に移籍するんです。
ただ、東京に行ったことで甲子園球場の魅力を改めて感じることもできた。オリオンズの選手たちも「甲子園は特別だ」と言っていましたよ。
今年で誕生から100年ですか。この球場でプレーできたことは僕の誇りです。(構成・山口裕起)
田淵幸一さん、活力源は「ON」
法大時代に当時の東京六大学リーグ本塁打記録(22本)を樹立し、阪神にドラフト1位で指名してもらいまいた。でも、私は行きたい球団ではなかった。巨人入りを希望していたからショックだったんです。
それだけに、巨人戦は燃えましたね。印象深いのは、その巨人を相手に7打数連続で本塁打を放ったこと。1973年、プロ5年目の時です。3試合にまたがって1~3本目は後楽園球場、4~7本目は甲子園で打ちました。
なにより、あこがれていた王さん、長嶋さんの「ON」の前でいいところを見せてやろう、というのが私の活力源でした。ダイヤモンドを1周するときに、三塁付近で長嶋さんが「田淵くん、よく打ったな」と声をかけてくれてね。うれしかったですよ。
75年に、43本塁打でタイトルを獲得した時は格別でした。王さんの連続本塁打王の記録を私が13年で止めたんですから。
いま振り返れば、甲子園球場に育ててもらいました。
私のデビュー戦は、満員の甲子園での大洋(現DeNA)戦でした。九回に代打で出て、平松政次さんから3球三振。球の速さに驚いて、一度もバットを振れなかった。ヤジも飛んできて。「すごい世界に入ったな。このままではダメだ」。そう思って、打撃フォームを改造したんですよ。
それから10年間、縦じまのユニホームを着て甲子園でプレーさせてもらって。なんだかんだで、いい球団でしたよ。優勝はできなかったけれどね。現役を引退した後も、甲子園に行くとドキドキするんですよ。やはり、特別な球場ですよ。
それと、もう一つ。親友の星野仙一と同じユニホームを着られたことも感慨深い。星野が監督で私がコーチで、2003年に優勝しました。甲子園での胴上げ、忘れられません。(構成・山口裕起)